ビルマ仏教

かの世尊・応供・正等覚者に帰命したてまつる かの世尊・応供・正等覚者に帰命したてまつる

(かの世尊・応供・正等覚者に帰命したてまつる)

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仏陀寝像

ビルマ仏教をご存知でしょうか。日本の皆さんが普段親しんでいる仏教は大乗仏教と呼ばれています。大乗仏教は、英語ではGreat Vehicle、サンスクリット語ではMahayana(マハーヤナ)と呼びます。「大きな乗り物(船)にのってみんなで彼岸に渡りましょう」という ところからきていると言われています。一方、ビルマ仏教は2500年前にインドからスリランカ経由でミャンマーにもたらされたといわれる 上座部仏教(大乗仏教に対して小乗仏教と呼ぶ方法がありますが、ミャンマー人は「テラワダ」、英:Teravadaと呼びます。)を 元にした「南方上座部仏教」と呼ばれる種類に属しています。ここでは、多くのミャンマー人が心のよりどころとしているビルマ仏教 について記したいと思います。

僧侶とは

このところ、激しくミャンマーにおける仏教、僧侶が取り上げられています。テレビなどでミャンマー人が 「僧侶は仏陀の子供・・・」と語る部分があります。仏教に対する熱い思いを語るミャンマー人を見て、日本の方々はどのように感じることでしょうか?

日本では、一般に僧侶といえば多くの場合、お寺の家に生まれ育った人が世襲的に営み続ける家業のような側面があります。新たに僧侶を志望する ことは「人間として生活する」ことに非常に困難を伴います。そもそも、「就職先」となる「寺院」があまり ないのではないでしょうか。後継者のいない「お寺」がうまく見つかれば良いのかもしれません。また一たび職業僧侶となったそいても、 それで生活するためにはある程度の「檀家」「信徒」「門徒」と呼ばれる方々を抱えていないと、僧侶だけでは生活できないことと思われます。

一方で、ミャンマーでは男子であれば精神・身体面が健康であれば、出家することによって 子供であればまず「コーイン」(ビルマ語)と呼ばれる見習い僧になります。そして仏教の戒律(200以上になります) を守りながら、師匠である「セヤドー」(ビルマ語)からさまざまな指導を受け「ポンジー」と呼ばれる 僧侶になります。 ある程度の年齢で出家した場合はポンジーから始まります。

出家したポンジーは守るべき戒律から妻帯を許されておらず、婚姻を終了して出家した ポンジー以外は「子供」はおりません。このため世襲的な職業としての僧侶は存在しない ことになります。ちなみに、ミャンマーでは夫が出家したのち、還俗せずに出家したままの状態を 維持すると、婚姻が終了したとみなされます。

また、僧侶である「ポンジー」は「生産活動」を一切行いません。 日々の「生活の糧」は、僧侶自身の生産や事業活動によって得てはならず、在家の人々からの「布施」から得る必要があります。それがミャンマーにおける「朝の托鉢」、すなわち「乞食」(こつじき)を行っている のポンジーたちの行列をなす姿ににつながります。

在家の一般人からすれば、一心不乱に戒律を守り、そして仏典に通じることを目指し、 そして悟りを目指す僧侶に「布施」をすることは、自身に「クドー」(ビルマ語:功徳)を 積むための「積膳行為」とされます。

このようにビルマ仏教における僧侶とは、おもに式典にかかわる職業としての僧侶 と位置づけが異なり、むしろ「生き方」である、と解釈した方が良いかもしれません。また日本でいうところの「還俗」(げんぞく)も、 「ティンガン」(ビルマ語:法衣)を脱ぐことによって簡単に可能であり、「来るものを拒まず、去るものを追わず」であり、在家の一般人 が人生の節目で1週間、1か月などの短期間、出家僧として過ごすこともよく行われます。

ミャンマーでは、出家式がはじまるまでは「我が子」であっても、一たび出家し、法衣をまとったならば「たとえ我が子であっても、仏弟子 の前では足元にひれ伏すように祈りを捧げる母の姿」をしばしば見ることができます。

ミャンマーにおける仏教とは、式典にかかわる宗教としてではなく生活の隅々にまで行きとどいた「正しく生きるとは」と いう自らの問いかけに答えを探す「生き方」を説いているものとなっています。

小乗仏教

大乗仏教に対比する定義としての「小乗仏教」は、「大乗」が「大きな乗り物に皆で乗って」という考え方に対して、 簡単にいえば「一人乗りの船に乗って」彼岸にわたる、きわめて個人主義的な色彩を帯びたニュアンスで使われている、 という解釈があるそうです。このため、このHPでは、あくまでもビルマ仏教の起源である「上座部仏教」という言葉を使いたいと思います。

注)ミャンマーは仏教国という認識が非常に強いですが、基本的な信教の自由は保障されています。10%前後の国民はクリスチャン、 数%の人々はムスリムでもあります。

仏教とは宗教!?

世界三大宗教として、東南アジア、東アジアの代表的な宗教に挙げられる仏教ですが、 とあるポンジー(上座部仏教の出家僧をビルマ語でこう呼びます)から目からうろこのお話を 伺いました。

「仏教とは、ヒトの正しい生き方を示しているものだ」

ある宗教団体が街頭で流すテープを耳にしますと「仏陀は人です」との言葉がありました。 確かにその方々にとっては「神様はただ一人」なのだと思います。でも「人間仏陀が2500年も 前におそらく述べたであろう言葉」は、現代の人間にも「正しく生きるとは?」のヒントを大いに 与えてくれると思います。「仏陀は人です」で結構。人間仏陀の語る言葉にもっとも近い言葉を まとめたものが「原始仏典」(『ダンマパダ』、『スッタニパータ』など)と呼ばれるものです。 ぜひ一度、手にとってご覧になってください。もっともシンプルな言葉の中に、深く考えさせられる ことがたくさん詰まっています。

ミャンマーのお経

ミャンマー人仏教との家庭に生まれると、小さいときから下にまとめた11個のお経(パレイ)を覚えます。しかしながら、 パーリ語とビルマ語が混ざった形式で記述されているため、なかなか難しいものです。もちろん、ビルマ語で記述されたテキストは どこでも手に入れることができるし、また人が亡くなったときに日本でいう香典返しとしてパレイをまとめたテキストを故人の名前で 配ることもよくあります。でもパーリ語をビルマ文字で記述している、といったらよいのですが、両親、先生、お坊さんにその意味を きちんと教えていただかないと、なかなかわかりません。もちろん、経典の内容を詳細に解説した解説本もありますし、 折に触れポンジーチャウン(僧院)で教えていただくこともできます。

ビルマ語パーリ語目的・内容
ミンガラ・トウ マンガラ・スッタ 仏陀が最上の幸せとは何かを解いたもの。
ヤダナ・トウ ラタナ・スッタ 疫災が襲い掛かったときに唱えるもの。
ミイッタ・トウ メッタ・スッタ 慈しみの心について解いたもの。
カンダ・パレイ カンダ・パリッタ 害虫や毒蛇などから身を守ること。
モーラ・パレイ モーラ・パリッタ 無実の罪などに陥れられたとき加護を求めるもの。
ワッダ・パレイ ワッダ・パリッタ 火事から身を守るもの。
ダッジャガ・パレイ ダッジャッガ・パリッタ 戦争から身を守るもの。
アタナティヤ・トウ アタナティヤ・スッタ 魔物から身を守るもの。
イングリマラ・トウ アングリマラ・スッタ 安産を祈願するもの。
ボッチャウンガ・トウ ボッチャウンガ・スッタ 病の治癒を祈るもの。
ポッバンハ・トウ プッバンハ・スッタ 占星術の不運のときに唱えるもの。

ここではほんの一部を聞いていただけます。(ここ。RealAudioが必要です。)

僧(ポンジー)に食事を差し上げること

どのような時に僧に食事を施与するのは次のような場合があります。

次の例は、結婚した後の二人が最初に善行をつむために食事を差し上げる催しの例です。

ポンジーチャウン 僧が托鉢を行う鉢にご飯を入れているところです。このポンジーチャウン(寺房)では、130名ほどの僧が在籍しており、 日々修行に励んでいます。ご飯以外の惣菜は、カッピヤ(浄人)と呼ばれる在家の手伝人によって調理されます。
���ンジーチャウン 僧に差し上げる食事が準備が整ったら、飯台を少し持ち上げます。食事をする側の僧はその時テーブルに手を添えます。 これを”カッ”といい、不与取戒(与えられざるものを盗る戒)を犯す罪を避けることになります。この後、食事を始めます。

僧に食事を差し上げた後、在家の信者は食事を行います。

ポンジーチャウン 三帰依文、五戒を僧の読誦から一定の間合いを持って行います。それからイェゼッチャ(滴水供養)を行います。 イェゼッチャで使われた水は、この儀礼の後に戸外に持ち出され、僧院の草木にかけてそっとかけてやり、供養によって 得た功徳を今は亡き縁者に送ります。

子供が生まれたとき、その子供の健やかなる成長を祈願して僧侶にお経を 唱えていただくこともあります。

ここをクリックしてください。RealMovieです

尼僧

メティライン 尼僧は”ティラシン”、または”メティライン”といいます。僧とはことなり、極彩色のピンク色の衣を身にまとっています。

パーリ語聖典

ビルマ仏教では、パーリ語とビルマ語が混交した仏典を僧・一般在家の信者ともに唱えます。現在、スリランカとミャンマーでの 読誦をサンプリング中です。パーリ語の仏典を研究している方々が利用するのはPTS (Pali Text Society)という団体 が発行しているローマ字化されたテキストを用い、必要に応じてビルマ語のテキストを参照されているようです。

経典の発声について(2003.08.03)

U-Zeekwyetでは、ビルマ仏教におけるパーリ・フレーズが各州(概ね民族の違い対応し、なおかつ母語 はビルマ語とは全く異なります)でどのように唱えられているかに興味持っています。

現在、モン州の三帰依文の音声を収録したところ、それはビルマ族の発音とは異なり、むしろスリランカ式で ありました。モン語はまったくビルマ語とは異なるようですが、最も基本となる三帰依文の読踊形式がスリランカ式 であることは、仏教の伝承ルートとも関係するのではないか、と思います。

フレーズ音声
パーリ語漢語日本語スリランカミャンマー
acicca [WMP]
gacchami(三帰依文) [WMP]
Dukkhalakkhana

Sabbe sankhara dukkhati yada paññaya passati atha nibbindati dukkhe esa maggo vishuddhiya.(Dhammapada 278)

「一切行是苦」,以慧觀照時 得厭離於苦 此乃清淨道 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。(中村訳) [WMP]
Sabbadanam dhammadanam jinati
sabbarasam dhammaraso jinati sabbaratim dhammarati jinati tanhakkhayo sabbadukkham jinati. (Dhammapada 354)
諸施法施勝;諸味法味勝;諸喜法喜勝;除愛勝諸苦。 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみに打ち勝つ。 [WMP]
Aniccalakkhana

Sabbe sankhara aniccati yada paññaya passati atha nibbindati dukkhe esa maggo vishuddhiya. (Dhammapada 277)

『一切行無常』,以慧觀照時,得厭離於苦,此乃清淨道。 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。(中村訳) [WMP]
mhvg40 [WMP]
Namo [WMP] [WMP]

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参考文献

AMAZON.CO.JPで入手可能な仏教関連文献をまとめています。こちらをご参照ください。

パーリ聖典についてこちらにまとめています。 

パーリ語の学習は文献も少なく、現在手に入る書籍は英語のものが多いのですがすぐれたHPを見つけました。

まんどぅーかのパーリ語ページ


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